しんせつであれ

反応しない、でも反応しちゃうよね


「でも」に疲れました

今私はあるプロジェクト(国家的ではない)に関わってチームで動いています。と、ここまで書いてあれのことでしょってなった人はこのまま読み進めるともしかして不快な思いをするかもしれませんが、私はここで一度整理をしたいので書きます。ネタバレはしないので安心してください←
世の中には本当に人の話を聞かない人、がいます。そんな方が同じチームに今います。話を聞かないだけならいいのですが、すごいエネルギーで返されるので伝えようとするこちらがとても疲れる。頑張って聴き続けたのです、話を遮ることもせず。しかし、返ってくる言葉は必ず「でも、」が付きます。あと、「それ、わかりました。」とか、つまり反論がこれから来ると・・・。私も社会人なりたての頃に「でも、が口癖だから気をつけなね。」と先輩に言われたことがあります。今でも口癖です、話を切り替える時とか無意識に、反証とか反論というより話の見方を変えたりする切替として使います。でも、「でも」が相手から来ると「うっ」て身構えたくなりませんか?あまりいい口癖ではないですね。

と、話戻すと、繰り返される「でも」
デモ。demo。デモクラシー・・・だったら良かったんだけど。これは独裁というか、一方的というか。そして、互いに何も歩み寄れないまま話を切り上げました。とても疲れました。こちらがもたないと思いました。

状況として、プロジェクトを台無しにしているのはその方であり、私は何も抱える必要もない立場ですが「もっとあの人の話を聞けばわかりあえるかも」という期待のもと話続けた結果、無理なんだなと気づきました。誰も頭ごなしに責めたりせず、とても言葉を選び慎重に、なるべく感情的にならないように努力しているのに、

どうしてそんなに自分だけ、自分の都合を並べることができるのだろう?・・・今思うと、「でも」という防御壁を作って脆い心を守ろうと必死だったのかもしれない

一方通行というわけには

こういう時に、目にする言葉が「あ、まさに今・・・」ってことはよくあります。たまたまみたXなつぶやき(未だTwitterって言ってまう)https://x.com/nanaharu123/status/1718400464646217973?s=46&t=qy0v6i-04IqzP40WcoJhFA

このポストは何着か続きもので(これがトップではないんですが)、この2つ後くらいに書かれている言葉

「他者との双方向のコミュニケーション等の広義の療育に力を入れていれば、こんなにご本人は苦労しなかったかも」

コミュニケーションって双方向どころかあっちこっちどっちやねんってくらい交錯していく、何の予測もつかない、毎日一瞬一瞬が本番です。リハなし、だから大変。もしかしたら、あの人は、誰かに助けを求めたり、または自分が主体となって人を助ける(関わる)という経験が相対的に不足しているのかなと思いました(この記事は発達障害の話をしていますがそれはここでは深い意味はないです)。これはまた別の記事に書く予定ですが、誰かを頼るのは当たり前でその方が圧倒的に生きやすい、そうしなければ「あなたが生きる、私も生きる」世界を作ることは難しいと考えます。その頼り方とか、距離感とか、伝え方とかが非常に不器用で生きにくいと思っている人が今増えているのかもしれない・・・。

自分にだってそういう一面はあるかもしれない、けど比較的人とのコミュニケーションを楽しく行ってきた。今回自分が攻撃されたわけでも何でもないのに「相手が話を聞かない」というだけで、こんなにも疲れてしまったのでした。気にするほどのことではないよ、と周りは言ってくれます。そうとしか言いようがないですよね。しかし、この時私が感じたのは、自分はちょっと他人事を自分ごとのように、どうにもならないことを抱え込みがちな性格であることと、悲しさや悔しさではなく、ただ「疲れたな私」という事実をそのままにしておきたかった、ということでした。

反応しない練習とは

さあ、ここでやっときた、反応しないという技。これは訓練が必要です。生きているということは反応し続けるということ。つまり反応しないというのはあり得ないことなのです。今この瞬間だって反応し考え行動していますよね。


「気にすることはないよ」と言われたけど、どうやれば気にしなくなれるんだっけと思ってそういえばこんな本を昔読んだなと思いました。本は読みやすくすぐに読めちゃうのでぜひみてみてください。
この本を読み今回の経験から、今後どうすれば「反応しなくなる」かまとめると

  • 反応する⇨ムカつく!
  • あ、反応したと気づく⇨すごい今私ムカついている
  • おまじない、マントラ(語尾を無理やりつけて話終了)⇨って判断しちゃっただけなんだけどね!ははは/さいですかさいざんすか・・・

よし、これで、なんとかなりそうだ。。。究極は瞑想、メディテーションが一番ですが、すぐにはできないそんな時に。結局相手に期待してもダメ、変わるのは確実なのは自分、そして今だけだから。

舞台は人とのコミュニケーションを学べる

さて一応、スタジオっぽい話にも繋げると、舞台に立つこと、演劇でもダンスでもなんでも、はぜひ子どものうちからやっておくと良いと思います。

舞台空間では同時多発にいろんなことが起きます。反応し、そこに感情を乗せている暇もないまま。台本があり、練習通りの動線をこなす前提のはずなのに、本番は何が起こるかわからない。それは舞台というものが人間の生身の体でできているから。勿論機材トラブルとかもあるけど、まあそれも人間の作ったものだし。その危機的状況の中でベストパフォーマンスを発揮すべく切替え、遊び、奮闘する。先輩俳優曰く「まあ、失敗しても死にはしないから(笑)」そして舞台の最大良きところと言えば、他者と空間を動きながら認知しつつ、自分を前に出せるってこと。日常では謙虚が何かと美徳にされるけど、舞台では自分をみて!ってアピールが堂々とできる。そして「自分ってちょっとかっこいいのでは?!」と自信がついていく。見て美しい体のしなやかさ(単に柔らかいことではなく)は心のしなやかさとつながっていると私は思います。反応しない=心しなやかにいること、ではないかな。

ただ、自分だけが目立てばいい、とか失敗してもいい、とちょっと違うけどね。舞台経験は人生という本番に大いに活きると思います。またこれも後日書きます。

しんせつであれ

最後にもう一つ紹介したいのがコチラ「낯선 사람을 환대하라」https://www.donga.com/news/amp/all/20210906/109105748/1
韓国語の勉強をしているときに見つけたもので、昔こんなこと読んだけどどこだっけなあって探したら見つかった。直訳すると「見知らぬ人を歓待せよ」なんつー硬い訳・・・。
自分がマグマのように怒り煮えたぎる時に思い出してほしい、繰り返し繰り返し思い出すのだ、自分を傷つけたその相手は、千倍辛い誰も知らない苦痛を我慢しているのかもしれない。見知らぬ人を歓待せよ、その人はもしかして変装した天使かもしれない。もっと強い言葉がある。“나를 죽이지 못하는 고통은 나를 강하게 만들 뿐이니.” (どんな苦痛だろうと私を滅ぼすに至らない苦痛なら、私を強くするだけだ)

𓀞𓀟𓀠𓀡しんせつスタジオ𓀢𓀣𓀤𓀥
みうらとしる(TOSHIL/도실)

投稿者プロフィール

三浦桃実
三浦桃実
看護師、ダンスファシリテーター、ヨガファシリテーター、シネマトグラファー。しんせつスタジオ代表。神奈川総合高校にて創作ダンスに出会い、神奈川県立保健福祉大学にて親切ダンスカンパニーを設立。様々な領域や枠を越えたメンバーで、地域に繰り出し踊ってきた。ダンスを言語として捉え、自分の思いを自然な動きで伝えるダンスのスタイルを編んでいる最中。ヨガ指導資格をリブウェルインスティテュートにて取得し、Bowspringや親子ヨガ、スタイルアップヨガなど、毎回哲学的なテーマを織り込んだオリジナルのクラスを提供する。ダンスもヨガも、ユーザー(参加者)と作り上げるスタイルが定評。またシネマトグラファーとして、依頼主の作りたい世界観を築き創るコンセプトで動画制作を行っている。
ユーザーさんたちが、自分が昨日よりちょっとかっこよくなっていることに気づいてもらえるように、スキルを活かして日々邁進中。モットーは「地球規模で考え、地元で行動」「しんせつなひと」
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看護師、保健師、RYT(全米ヨガアライアンス)500、メディテーション(瞑想)講師、JCDN主催コミュニティダンスファシリテーター養成講座修了生